上映趣旨
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上映趣旨/監視に見つめられてこわばった身体をほぐすように

老芸人のつたない一芸をみたことがあるでしょうか?
路上で通りすがりの人々に自分の持てる全ての芸を披露する姿をみたことがあるでしょうか?
その姿は美しいと呼ぶには、その言葉の枠があまりにも狭く、形容する言葉が思いつかないで言葉に窮するほどです。
映画「月夜釜合戦」が目指すのは、まさにそのような老芸人の一芸です。美しいという言葉の枠の外にある表現。囚われたフレームの枠を押し広げる何か。スクリーンの外に出ていくような映画でありたいと思っています。
なぜならば、映画の舞台にしたこの「釜ヶ崎」という場所自体が、枠からはみ出した場所でした。釜ヶ崎という街にどんどん惹きつけられたのも、そのような枠から外れたモノに惹かれたからに他なりません。
僕が初めて釜ヶ崎に来た時、ジーンズにTシャツにスニーカーと普通の格好をしているはずなのに、なぜか、そこにいる人達の視線を感じました。「部外者が入ってくるな。」「観光客気分でわしらをみるな。」そう言われているようでした。自分は、この場所に呼ばれてはいない、ここは望んでくる場所ではないと直感しました。


巨大な古びたどっしりとした建物、柱の周りや地べたに汚い格好のおっちゃんたちが座っている。「丁!半!」と声がしている。博打をしているようだ。高架下ガードの煤けた壁には「団結」「同志・橋野」など赤いスプレーの文字が書かれている。路上には、牛のようにでかい野良犬がいた。海が近いわけでもないのに裸のおっちゃんが歩いている。ゴミの山が積み上げられている。その横でアルミ缶を潰している人、銅線を剥いている人。路上に風呂敷を広げて物が売られている。公園では、焚火に人だかりができている。ブルーシートの小屋がたくさんあった。大勢のひとがうねうねと並んでいる。飯を配っているようだ。しょんべんや生ゴミや野良犬たちが入り混じって、鼻を鋭く刺激する。臭いが、街の辻々の角のひび割れた壁からたちのぼっていた。
完成までの5年間でそれらは、様変わりした。
ひび割れた壁に染み付いている入り混じった臭いは、凹凸のない白いプラスティック製の板にとってかわり、臭いがなくなった。クズ拾いの人たちにとって宝の山である積み上げられたゴミは、不法投棄として、360度見回せる監視カメラと、巡回員に常に見張られている。野宿者が暖をとるために三角公園でおこなわれる焚火は近隣からの煙の苦情がきているという理由で消された。テントが排除された後には、二度とテントを建てられぬように、花壇が作られた。路上博打の喧騒も警察の取り締まり強化でなくなった。よそ者を寄せつけぬ牛のようにでかい野良犬ももういない。
そして、自分の格好は初めて来たときと変わらないはずなのに、前の様に視線を感じなくなった。よそ者とこの街の人々との境界がなくなったようだった。なんだかよくわからない路上に溢れた人やモノの集積が釜ヶ崎とよそを分け放つオーラをつくっていた。だからこそ、それらのモノは消された。釜ヶ崎を盗ろうとする者たちにとって、それらのものは邪魔なものなのだろう。
公園はどんどん私有化されている。横になれないようにベンチに衝立ができ、夜間は封鎖され、洗濯や、焚火はもちろん、将棋すらもできないようにされている。何も私有していない者たちが使いやすい空間ではなく、既にたくさんのモノを私有している者たちが使いやすい空間としてつくり変えられている。
けっして、古い建物が好きという懐古趣味や、汚いものや臭いものが好きというような個人的な趣味でこれらの消え去った物事を擁護しているわけではない。自分たちがこの街を知り、「月夜釜合戦」の製作過程でみてきた露店やゴミやテントや焚火は、野宿者の生活の一部として、または三畳一間の空間に押し込められた生活保護者やドヤ住まいの日雇い労働者の生活空間が路上に溢れ出したものだった。押さえつけられた状況を、より良き生へと転化する創造的なものだった。また、監視やルールによって凝り固まった自分たちの身体をほぐしてくれる驚きが風景や人間の所作に息づいていた。
僕たちは野宿者のテントを新たにつくらせない為の排除用フェンスを物干しとして転用する様を見た。排除用の花壇に新たに増設された、不恰好な手作りの椅子をみた。将棋盤の升目が路上に直接マジックで書かれているのを見た。何度、警察に捕まっても、留置所から出所した次の日の早朝には、必ず路上に出てくる露店商をみた。
路上に溢れだした人々の生活そのものが、釜ヶ崎を盗ろうとする者に対峙する様を見た。
僕らも上映の中でそれらから学んだやり方で「月夜釜合戦」を上映するだろう。
上映される空間では将棋が指されるであろう。映画に映っている炊き出しの大釜が路上に溢れでるだろう。炊き出しや、食堂が出現するだろう。万が一、トラブルが発生し、上映が困難になったら、ギャグを50個披露するだろう。
僕らの「やり方」はまずもって、身振りのなかから語られる。笑いとともに。
老芸人がつたない芸を通りすがりの人々に全力で披露するように我々の持てる芸を全て披露したいと思います。